行ったら、やっぱり、面白かった!NIPPON 再発見紀行

自然と建造物のバランス美
「日光を見ずして結構というなかれ」

愛知県で育った私は39年前、中学校の修学旅行で初めて日光を訪ねた。東照宮や華厳の滝の前で撮った記念写真はアルバムに残っているのだが、それらを見直しても、当時どんな感想を抱いたのかはもう思いだせない。

東京に暮らしはじめてからは3度、日光に足を運んだ。そのたびに東照宮と日光二荒山神社に参拝してきたが、手前にある神橋(しんきょう)を渡ったことはなかった。

神橋の伝説にはこうある。

奈良時代の末、二荒山(ふたらさん)こと男体山の登頂に挑んだ勝道上人ら一行が激流の大谷川を渡れずに困り果てていると、川の北岸にひとりの神人が現れた。夜叉のような姿で右手に2匹のヘビを巻いたその神人は、「我は深沙大王である。汝を彼の岸に渡すべし」と言いながら右手に巻いていた赤と青のヘビを放った。すると、2匹のヘビはたちまち川の対岸を虹のように結び、その背に山菅(ヤマスゲ)を生やした。上人一行は山菅の上を歩いて無事に川を渡ることができたのだが、ふり返って見ると、神人も橋もすでに消えていた。上人は合掌して大王の加護に感謝し、それ以来、この橋を「山菅の蛇橋」と称したらしい。

今回、私は初めて神橋を渡ってみた。鳥居の形をした石の橋脚で支え、両岸から伸びた乳の木と呼ばれるケヤキ材を別の1本で繋ぎ、その上に橋板が渡してある。全体には朱色の漆塗りが施され、橋の中央部に立って眺めると、周囲の新緑と川面の色と絶妙の色調を保っていて美しかった。

左)俗界から日光二荒山神社の境内である二荒(にこう)「日光」に渡る神橋。右)平成12年に世界文化遺産に登録された社殿群。写真は三神庫

先に神橋を渡ったせいか、今回は、初めて正しく聖なる日光の地へ足を踏みいれた気がした。東照宮が造営されるはるか以前から下野国一の宮として栄えた日光二荒山神社の境内は広く、華厳の滝もいろは坂もふくまれる。そもそも日光の語源は「二荒」の音読からきているのだから、何度来ようが、日光二荒山神社への参拝は欠かせない。

修学旅行の小学生でにぎわう東照宮の参拝をすませた私は、下りの参道を途中で右に折れて進み、日光二荒山神社の拝殿前で足を止めた。奥の本殿には、勝道上人が男体山の開山の許しを請うた3神が祀られている。現在の社殿は徳川秀忠が元和5年(1619)に再建したものだが、少し離れて仰ぎ見れば、杉の巨木群と溶けあいながら今も偉容を誇っていた。

思えば、神橋や東照宮が放つ華やかさも、輪王寺が漂わせる荘厳さも、いったいどこに視座を置いたらこんなデザインができるのかと感じるほどに、自然とうまく調和している。昔から「日光を見ずして結構というなかれ」と謂われてきたが、山々の傾斜や川の流れ、そして木々の形や大きさを精緻に計算しての成果なのだろう。いつもながら、先人畏るべしである。
 杉の巨木の間からは、ちらっと男体山が見えた。

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